超低速ミュオンスピン暖和法

「超低速ミュオンスピン緩和法」は、従来の「ミュオンスピン緩和法」に「超低速ミュオンビーム」を導入した新たな実験手法です。これにより、試料表面から数ナノメートル~数十マイクロメートルの範囲で、いろいろな深さにおける磁気情報やダイナミクス情報を、数ナノ秒~数十マイクロ秒という特徴的な時間スケールで引き出す事が可能になります。本プロジェクトではこの特徴を利用して、摩擦に重要となる物質の表面・界面から試料内部へ続く領域において、高い深さ位置精度で原子や分子のダイナミクス観測し、トライボロジー研究を推進してきます。

ミュオン

ミュオンは、荷電レプトンの第二世代に分類される粒子で、同じく荷電レプトンの第一世代に属する陽電子(e+)や電子(e-)の仲間であり、同様に正電荷を持つ「正ミュオン(μ+)」と負電荷を持つ「負ミュオン(μ-)」に分類されます。その質量は陽子の約9分の1倍であるため、特に本プロジェクトで利用する正ミュオンは、物質中では「軽い陽子」として振る舞うことが分かっています。また、ミュオンは電子・陽電子や中性子と同様にスピン磁気モーメントを持っているため、磁気に非常に敏感な粒子です。さらに、弱い相互作用により寿命約2.2マイクロ秒で、陽電子(電子)とニュートリノに崩壊するという性質を有しています。
ミュオンは比較的身近に存在しており、宇宙線として手のひらの大きさに毎秒1個程度の頻度で地上に降り注いでいます。しかし物質科学の研究では、高いビーム強度やエネルギー選択性を必要とすることから、J-PARC等の加速器を用いて二次粒子として生成されるミュオンを用います。さらに、加速器で得られたミュオンは、そのスピン磁気モーメントの方向がほぼ100%進行方向に偏極しています。こういった特性を利用した実験手法が、以下に述べるミュオンスピン緩和法です。

ミュオンスピン緩和法

ミュオンスピン緩和法は、ミュオンビームを調べたい試料中に照射注入し、放出された陽電子数の空間分布とその時間変化を測定することにより、物質内部でミュオンが感じた磁場を、数ナノ秒~数十マイクロ秒という特徴的な時間スケールで知ることができる方法です。ミュオンスピン緩和法は、中性子散乱実験よりも長い時間スケールでのダイナミクスを観測するのに最適な方法であり、両実験を相補的に利用することにより、広い時間範囲を網羅することができます。その原理を、以下で簡単に説明します。ミュオンスピン緩和法

試料内に注入されたミュオンは、試料内の固有な位置に停止し(上図(a))、試料外から印加された磁場や、試料内に始めから存在している磁場(下図)を感じてラーモア歳差運動を行います(上図(b))。
この歳差運動の角速度ωは、ミュオン固有の磁気回転比γ=2π×135.53MHz/Tを用いて、ω=γHで現されます(Hはミュオンが感じる磁場)。やがて寿命程度の時間が経過すると、正ミュオンは陽電子とニュートリノに崩壊します。このとき放出される陽電子は、ミュオンが崩壊した瞬間にミュオンスピンが向いていた方向に高い確率で放出されます(上図(c))。この放出される陽電子の数の時間変化を特定の位置に設置された検出器で捉えることにより、ミュオンの歳差運動の様子を知ることができます(上図(d)時間スペクトル)。こうして得られる時間スペクトルを解析することにより、試料内に存在する磁場が均一であるか、広い分布を持っているか、また時間的に静止しているか、ゆらいでいるか、といった情報を定量的に得ることができます。特にダイナミクスにおいては、磁気回転比とミュオンの感じる磁場との兼ね合いから、一般的に数ナノ秒~数10マイクロ秒(数10kHz~数100MHz)において、ミュオン特有の感度を有しています。
ミュオンスピン緩和法

では、どのようにしてミュオンスピン緩和法を摩擦や潤滑といったトライボロジー研究に役立てるのでしょうか。トライボロジー研究での鍵は、原子、分子がどういう速度や運動モードで動いているか、といったダイナミクス情報をいかに取得するかです。ミュオンは直接的には磁場を見ますが、この磁場のダイナミクスを通じて、原子や分子そのもののダイナミクスを見ることができます。例えば、ある小さな棒磁石と、その横にいるミュオンを想像してください。この棒磁石がずっと静止したままならば、棒磁石がミュオンの位置に作る磁場は一定で時間変化しません。ところが、もし棒磁石があちこち動き回ったり、或いは回転したりといった動作が生じると、ミュオンの位置に生じる磁場の大きさや方向も時間変化します。ミュオンはこの時間変化する磁場を感じてラーモア歳差運動を行いますが、その軸となる磁場の方向や大きさが時々刻々と変化するため、ミュオンの歳差運動も時々刻々と乱されていきます。ミュオンの運動の乱され方が早い、遅いといった情報を拾い出すことにより、元々の棒磁石そのものの運動を知ることができるのです。
この棒磁石は、様々な方法により試料に導入することができます。たとえば磁気秩序が発達する試料では、秩序化した磁気モーメントによりミュオン位置に有限の内部磁場を生じます。また、実際にナノサイズの棒磁石をポリマー等の試料内に混ぜ込み担持させることにより、実現することも可能です(磁気マーカーミュオンスピン緩和法参照)。さらに興味深い方法として、水素の同位体としてミュオニウムのミュオンスピン緩和法があります。非金属物質中に打ち込まれた正ミュオンは、電子を一つ束縛して「ミュオニウム」と呼ばれる中性原子状態となる方がエネルギー的に安定な場合があります。このような状態を取るかどうかも含め、ミュオン/ミュオニウム原子は陽子/水素原子の電子状態のシミュレーターであり、その電子状態から水素原子の電子状態を知ることができます。
このようにして得られた原子スケールの磁気情報は、超伝導や化学反応のダイナミクスといった基礎研究はもちろん、摩擦や潤滑の制御、燃料電池や半導体材料の開発、水素エネルギーの利用などへの応用が期待されています。

超低速ミュオン

超低速ミュオンを用いると、試料に注入するミュオンのエネルギーを0.5 keV~数10 keVの間で制御することができるため、ミュオンを表面・界面から数ナノメートル~数百ナノメートルの狙った位置に打ち込み、その位置での磁気状態や電子状態、水素原子の役割や原子・分子の動きを観測することが可能です。
加速器で生成されたミュオンを一旦高温タングステンターゲット中に打ち込むと、ターゲットから熱エネルギー(0.2 eV)程度のミュオニウムが真空中に放出されます。このミュオニウムに対しレーザーを照射することで、ミュオニウムから電子を共鳴イオン化により解離させることによって得られるミュオンを利用します。このときのミュオウムはもとのミュオニウムと同じくエネルギーが約0.2eV程度となっており、こうして得られるミュオンは超低速ミュオンと呼ばれ、単色性の非常に良いビームとなります。
この高い単色性により、超低速ミュオンを再加速することより高い精度でミュオンのエネルギーをコントロールすることができます。ミュオンのエネルギーを変えることのメリットは、試料内に打ち込んだ際のミュオン停止位置が制御できることです(下図)。これにより試料深さ方向の情報を得ることが可能となります。
超低速ミュオン
試料深さ方向の情報は、摩擦・潤滑の研究を行う上で大変重要です。例えば二つの金属を接触させてずらすと摩擦が生じます。この摩擦力には接触界面の構造や状態が非常に密接に関わっています。また、摩擦を低減させるための潤滑材はこれらの接触界面に充填されます。すなわち表面・界面のダイナミクス情報を得ることが、トライボロジー研究を進める上で重要となります。こういった表面や界面に超低速ミュオンを打ち込み、表面の深さ方向のダイナミクス情報を得ることにより(下図)、トライボロジー研究に大きく貢献できると期待されています。本プロジェクトでは、超低速ミュオンスピン緩和法により、これまで観測が難しかった極微量の水素原子のダイナミクスを明らかにし、トライボロジー研究を推進していきます。
超低速ミュオンとミュオニウム