中性子/ミュオントライボロジーが拓く世界

中性子/ミュオンを使って摩擦や潤滑の世界を探るという全く新しい試みは、これまで私達が見ることができなかった世界を拓いてくれる可能性があります。さらには、新たな技術革新をも生み出すかもしれません。私達が行おうとしている研究と、その期待されている成果についていくつかご紹介しましょう。

高分子化学

摩擦や潤滑という現象は、物と物が触れている場所で起きています。これはつまりこうした現象が通常の方法では見ることができない場所で起きている、ということを意味します。ミュオンや中性子を使えば、物体を透過して、まさしく摩擦が働いているその場所を、分子スケールで観察することができます。

たとえばタイヤ。タイヤの性能を高めるためには、タイヤと地面が接する場所で何が起きているのかを知る必要があります。しかし、これまでの電子顕微鏡などを使った方法では、物質の表面を観察することしかできませんでした。しかし、中性子ビームを使えば、タイヤに圧力がかかった状態のまま、ゴムの分子鎖の一部が動く「局所運動」や「セグメント運動」、また、分子鎖全体がミミズのように動く高分子特有の拡散運動など、ゴムの中で起きているダイナミックな現象を捉えることができます。こうしたダイナミクスが詳しくわかれば、更に環境に優しく、性能の良いタイヤを作り出すきっかけになるかもしれません。

界面化学

潤滑剤とエンジンのピストン等の金属が触れているところを想像してみてください。金属と潤滑剤がまさしく接している場所とそこから少し離れた潤滑剤だけがあるところでは、振る舞いが違います。金属と潤滑剤の界面では金属の表面と潤滑剤の相互作用が問題になりますし、潤滑剤だけの場所は流れや熱の影響を考えなければなりません。こうした現象を理解するために、中性子・ミュオンの透過力を自在にコントロールする技術が重要になります。

たとえば、潤滑剤と添加剤。潤滑剤にはその用途に応じて様々な添加剤が加えられています。滑りや摩耗に対する性能を上げる、広い温度域で性能を保つ、酸化を防止するなどその役割も添加する薬剤の種類も様々です。しかし、こうした添加剤がどのようなメカニズムで効果を発揮するかについてはまだ分かっていないことがたくさんあります。こうした潤滑剤と添加剤の役割を理解するためには、物体と潤滑剤が触れているその界面から、潤滑剤の内部まで、潤滑という現象を多層的要確認に捉えることが必要です。

材料開発

液体と物質が触れている場所では、様々な現象が起きています。たとえば、水に溶かすことができないアクリルの表面も、水に触れている部分の分子が、わずかに水の中にほどけていることが分かっています。こうした、液体と素材の複雑な相互作用が、素材の液体に対する性質の違いに大きな影響を与えていると考えられます。

たとえば人工関節。人工関節の世界では近年「高分子ブラシ」と呼ばれる、高分子が表面に高密度に生えている物質に注目が集まっています。高分子ブラシのように高分子鎖が密に生えていると、ブラシの内部に「浸透圧」という強い圧力がかかっていて、外から押されても強い反発力が生じます。これによって高分子ブラシが生えた表面は、圧力がかかった状態でも非常に摩擦の小さい状態を保つことができるのです。また、ブラシと物質が強固に結合しているため、容易に剥がれることがなく、低摩擦状態を長く保つことができます。このような性質は圧力がかかった状態でもスムーズに動く必要がある人工関節にとって非常に有効な素材となると考えられています。

装置開発

ミュオンや中性子で摩擦や潤滑の世界を捉えるという世界に先駆けたプロジェクトは、新しい観測装置を開発するという意味でも大きなチャレンジとなります。ミュオンや中性子で物体の表面や内部で起きていることを仔細に観察するためには、ミュオンの速度を自在にコントロールする技術や、中性子の通るパスを精密に制御する技術が必要です。また、観測対象の物体から出てきたビームを受けて変化を測るための計測機器や、そのデータを解析しそこで起きていることを明らかにする分析技術も重要です。そうした新しいチャレンジから新たな技術が生まれようとしています。

たとえば「中性子スピンエコー分光法」。中性子は試料で散乱される際に内部でエネルギーを失うと速度が遅くなって出てきます。野球のバントをイメージすればわかるとおり、これは物質内部での「動き」と深い関連があるため、これを解析することによって分子の運動を調べることができます。中性子スピンエコー分光法はこれをさらに改良し、中性子の「磁気スピン」という小さな磁石のような性質を利用して、その回転数を調べることによってさらに小さな速度差を調べることができる、特殊な実験手法です。これにより、これまでの中性子散乱実験では観測できなかったゆっくりした動きを捉えられるようになるため、特にゴム分子のように大きな分子が拡散する様子を観察するための強力なツールになると期待できます。

誰も見たことのない世界

中性子/ミュオンで摩擦・潤滑の世界を探るというのは、これまで世界でもほとんど試みられたことのない新しい研究分野です。そこには誰も見たことのない世界が広がっています。誰も見たことがない世界には、誰も想像しなかったような新しい発見が隠されているかもしれません。もしかしたら、そこで見つかった何かが、私達の未来を変えるような技術につながるかもしれませんね。